「蓮奈……本当に、来てくれたのか」
 生徒会長の小さな弟分が、聖リリアンヌの姫君を伴って入ってくると、白衣を着てなにやら薬品を調合していた乾は驚きを隠さなかった。どうやら越前が口にした「連れていくように言われた」の主語は彼ではなく、「スーパー6」の他の誰かであったらしい。
「先輩、ミス柳と使ってくれって、手塚部長から」
 越前の差し出した小さな鍵を見て乾は息を飲み、その後ため息をついて「わかった、有難う」と鍵を受け取った。任務が済むと越前はすぐに出ていってしまった。
「ローズガーデンへ行こうか、蓮奈」
「何かしら、それは」
「生徒会で談話室として使っているテラスがあるんだ。そこなら静かだし、落ち着いて話せる」
 乾は蓮奈を、校舎の2階に作られた温室へと連れていった。「生徒会専用」と書かれた門を開けて中へ入ると、男子校の敷地内とはとても思えない優雅な庭園である。
「素敵、なんて綺麗なの」
 沈んでいた蓮奈の顔が輝き、彼女は瑞々しく花開いた一輪のそばに膝をついて、そっとその香りを嗅いだ。乾ははにかんだ笑顔を見せた。
「蓮奈の誕生日の花だね」
「覚えていてくれたの。……貴方と1日違いだから?」
「そうでなくても、覚えていたよ。忘れるわけがない」
 ふたりは薔薇園の中のベンチに腰かけた。校内の喧噪が遠くの潮騒のように聞こえるばかりで、しばらく彼らは無言のまま、何を語り合えばいいのか、言葉を探し求めているようだった。しかし、蓮奈が先に口を開いた。
「貞治、貴方どうして今まで、何も連絡をくれなかったの?」
「蓮奈の手紙を読んだよ。……ついこの間、ようやくね」
「えっ、どうして? 私、引っ越す前にお手紙を送ったのよ。やっぱり…届いていなかったの?」
「違うんだ。あの手紙は……暗号で書いてあっただろう?」
 乾が言うと蓮奈は、ひどく困った様子でうつむいた。彼の言う通りだった。急に転居が決まり、心を残しながらしたためた手紙に、初めて愛情深いことを書いてみたはいいが、読み返して恥ずかしくなってしまったのだ。
 彼のおうちの人が見たらどう思うかしら…そう思うといたたまれず、ついその文面を、普通に読めない形に変換して送ってしまった。
「でも、貴方なら分かったでしょう? あんな単純な置換え式暗号…」
「いや、恥ずかしながらまったく、分からなかった…俺はあの文字列はカモフラージュだろうと思いこんで、透かしとか何か物理的な手段だろうと、そっちの方を一生懸命考えてたんだ」
「まあ、私にそんな器用なことが、できるわけないじゃないの。…貴方らしいわ」
 蓮奈は驚き、子供の頃から科学が好きだった友人の顔を見て微笑んだ。乾は照れた様子で頭を掻いて言った。
「まさかROT13で書いてあるとは思わなかったよ。……蓮奈の暗号が解けない俺には、連絡をする資格がない気がしてね。引っ越したことは、親から聞いてわかったけど、どうしても手紙を書いたり、電話したりができなかった。君ががっかりしているだろうと思ったけど、俺も、意地になってしまったんだ。だけど、解き方はずっと考えていたよ。忘れたことはなかった、君のことは」
 乾は立ち上がると、少し離れたところに咲いている薔薇に近寄り、純白の花を一輪手折った。そして、夢見るようにそれに見入りながらつぶやいた。
「君は…手紙に書いてくれたことを覚えている?」
 スカートの上で蓮奈は、震える両手を握りしめた。(今はお別れしないといけませんが、大人になったら、むかえにきて)と書いたことを、覚えていないはずがなかった。
「はい。この薔薇はね、『ホワイトマジック』という品種なんだ。蓮奈に似合いの名だろ」
 乾は蓮奈の前にひざまずくと、やさしい白い色の花を彼女の膝にそっと置いた。
「実は、俺は今度の夏休みいっぱいで青学をやめるんだ」
「ええっ?」
「親の仕事についていくことにしたんだよ。ニュージャージーで私立の学校に入る。卒業したらそのまま、向こうの大学で学位を取ろうと思うんだ」
 彼は蓮奈を見つめてしゃべろうとしたが、いたたまれないように目を伏せてしまい、しかし、懸命に告げようとした。
「だから、いま蓮奈に言っておきたかったんだ。俺が…その……つまり、君の…」
 感激に胸を熱くさせながらも蓮奈は、あまりに驚いてどうしていいのかわからず、ただ呆然とするばかりだった。乾が言葉に詰まっていると、彼らの背後で突然、がさがさという音がした。
「誰かいるのか!」
 薔薇の茂みの中から、棘で引っ掻き傷だらけになった、一人の男の子が恐縮至極の様子で這い出てきた。内気そうな顔を真っ赤にしている。
「海堂! どうしたんだ一体、そんなところに隠れて」
「すいません、申し訳ありません……不二先輩に『邪魔するんじゃないよ』と言われたんスけど、どうしても先輩がちゃんと告れるか心配で…本当にすいません!」
 唇をかみしめてぺこりと頭を下げると、その子はすぐに踵を返して走り去ってしまった。ただただびっくりしている蓮奈のそばで乾は深いため息をついた。
「今のかたは」
「科学部の後輩の海堂薫だ。一応、俺の後に部長を譲ることにしている…うちにも君たちの言う『つぼみ』のような役目を作ることを、手塚が提案してね。さっきの越前は、手塚が『青学の柱』を継承させることにした子だ。そして、俺は海堂を」
「そうだったの…」
 蓮奈の心はなんともいえない思いでいっぱいになった。実直そうな乾の弟分が、涙ぐみそうにさえなっていたのはそれでは、あの子もきっと先輩に対する複雑な感情を持て余しているのだろう。白百合の妹と同じように……。
「あかね、あの子は、どうしたかしら? 心配だわ、見に行ってくる」
 彼女がそう言うと乾も仕方なさそうに「俺も行こう」と答えた。