教えられた部屋の扉をノックすると、相変わらずのんびりした返答が聞こえた。中はさすがに普通の広さの部屋だったが、蓮二はここでも寝台に寝そべってノートパソコンを叩いていた。
「アンタ、なんかいつもごろごろしてんだな…」
「起きてんの面倒くさいんだもん。赤也も、その辺に寝転んでいいよ。このベッド広いから」
「それ、何してんの? 勉強?」
「株価をチェックしてるんだ」
「かぶぅ?」
 げんなりしながら、それでも画面をのぞいてみる。グラフや表が何枚も表示されている、それらを手早く動かしながら、蓮二が落ち着いた声で尋ねた。
「聞いた? 乾から」
「何をだよ」
 赤也はわざと、機嫌を損ねたふうを装ってみた。すると蓮二は、顔を上げて嬉しそうに赤也を見た。
「予想通りだ。きっと、俺とさしで話さないと納得しないと思ったよ」
「よくわかってんじゃん。なんで最初っから言わないんだよ、アンタ、焦らしたいタイプ?」
「……怖かったから」
 キーを操作する手を止めてうつむき、つぶやく蓮二を、赤也は驚いて見つめた。あまりにも突然に、彼の様子が変わったからだ。
「弟に嫌われたくない。やだって言われたら、どうしようって怖かった…どう話せばいいのかわからなかったんだ。弟ができたの、初めてだし」
 戸惑いと、そしてもうひとつ別の何かが、赤也の胸を速くさせた。
 まるで幼い子供みたいに、怯えた目をして告白されたから。
 いや、それだけではないのだ。なぜだか、とてもはかなげに、壊れてしまいそうに見えたから。それが、どうしてか、とても愛おしいものに思えたから。
 そんな気持ちになったのは初めて、かもしれない。ずっと昔、母に頼み込んで飼わせてもらった仔猫のことを思い出した。拾ってきた猫で、痩せて小さくて臆病で、なかなか馴れてくれなかった。何度も触ろうとしては怖がらせて、家具の下や物陰に隠れられてしまって、そのたびに悲しくて泣いたっけ。
 不思議だった。たとえるなら今の自分が、その猫なのに、なぜか逆に思える。
(誰にも頼らずに生きてきたし、何でも一人でできる方)
乾はそう、言ったっけ。だけど本当に、そうだろうか。父親にも母親にもろくに会わずに育って…誰かによくやったって褒められたり、おねだりして怒られたり、泣いてなぐさめてもらったり、してほしかったんじゃなかったのかなあ?
(おいおい、俺…なんでそういう考えになるんだよ? このヒト、天才だぜ! テニスだってあんなに上手いんだぜ! なんでそんなふうに、俺が…)
 護ってあげてくれ、と言ったのは、あれは保護者だった乾の願いだろう。なぜ、自分までそう感じるのだ。(護ってあげなきゃ)なんて思うのは、どうして……
(だ、だって、このヒト、なんか結構、かわゆいっていうか)
 困り果てた上目遣いの瞳が、どうにもほっとけない感じで、胸がどんどん速くなって。
「バカ、何言ってんだよ! 俺だって…兄貴ができたの、初めてなんだから。そんなの…そんなの、はっきし言ってくんなきゃ、分かんないんだからっ!」
 照れ隠しにわざと大声で言って、脹れてみせた。兄が目を見張って自分を見たので、思わず付け加えてしまった。
「あのな、俺、最初から思ってたんだから。兄弟なんだったら、助け合うのって当たり前だろ。それに、俺なんかほら、なんだ、天涯孤独の身ってやつになっちまったんだから。それにアンタに貸しもあるしな! 負けたから一個言うこと聞くって、俺言っちまったし。どんなことでも一個は一個だもんな」
「赤也……」
 蓮二は面映そうにまばたきを繰り返し、目元をほんのり赤らめた。それも、とても控えめで遠慮がちな様子で、見ているともどかしいような、さっさと拾い上げて助けてやらねばならないような、そんな気持ちにさせられる。
「ありがとう。あと…その、ごめんね」
「いいんだよ、もう」
「乾に厭味言われたんだもん…相手は年下なんだから、少しは手加減しようという気はないのかって」
「あのやろ、余計な気回しやがって。いーの、もう、男と男の勝負だろ! 手加減無用! つーか次ぜったい、俺勝つよ。悪いけど勝たしてもらうよ。今日はちょっと雰囲気に呑まれちまったからな、調子狂った」
 気遣うつもりで明るく言い、赤也は兄のそばに寄って、パソコンの画面をのぞきこんだ。
「ねえ、これ、俺にも教えてよ。経済とか会社とかそういうの、全然分かんねえからさ、俺。手伝いたくても手伝いようがないもん。勉強するから、教えて」
「……ふぅん? 勉強する気、あるんだ」
 横目で弟を見て、蓮二がにやにやと笑ったので赤也は内心またちょっと腹を立てたが、一応大人しく頭を下げることにしたのだった。



が。
「………ぜんっっっぜん、わかんねえ…」
「そう…。もう、説明するの面倒くさくなっちゃったなあ」
 蓮二は深いため息をついてまたベッドに寝転がり、雑誌を読み始めてしまった。
「乾にでも教わって、適当にやってみてよ。その口座、赤也に任せるから」
「ええええ?! ちょ、ちょい待ち、任せるってオイ! そんなこと言われても、どーすりゃいいんだよ」
「そうだ。目標があるほうが、勉強に身が入るよね。半年後に利益が出るように運用してよ。目標プラス500万ね」
「ご……ひゃくまん〜〜〜〜?!!!」
 絶叫する弟を尻目に、兄は相変わらずのんびりとくつろいでいるのであった。