美人さんの言った通り、真田先生は学園祭の終わった後の週明けには職務に復帰してきました。多少やつれているようにも見えましたが、幸せそうでした。
 蓮二もそれを喜ばしく思いました。真田先生が前より少しだけ、とっつきやすくなったような気がしたからです。机の上の写真立てには、先生と恋人さんが一緒に写っている新しい写真が飾られていました。景吾たんはあれからもときどき真田先生の研究室に来てまた学内政治のことを相談しているようでしたが、写真を目にするとなんとなく微妙な顔をしました。
「景吾たんとユーシさんが話してたんだけどさあ…」
 ジロがある時こう、教えてくれました。
「景吾たん的には、はっきしいって幸村たんはぜーんぜん、コイビトにしたいタイプじゃないんだって! 真田せんせが幸村たんになんでそこまでゾッコンか、気が知れねえってこぼしてたよ。なんかね、オレ、わかる気がする! なんたってあの景吾たんをも振り回せるコだもん、そりゃこわいよー」
 なるほどなあ、と蓮二は詠嘆しました。いつもダンディな真田先生がたまに突拍子もない色柄のネクタイを締めていたり、12月になってとんでもなく不恰好な手編みのマフラーをしてきたりするのも、そういうことかと納得できます。が、真田先生がいいならそれはそれでいいだろう、と蓮二は前向きに考えるようにしました。
 しかし、前向きに考えるわけにはいかないこともありました。それは、切原君がもうすぐ卒業してしまうことです。切原君は毎日必死に卒論を書いていて、遊んでくれる暇もないようです。蓮二は友達と話していても気分が晴れませんでした。もうすぐクリスマスで、お御堂や芝生のお庭のまわりの木々にはきれいなお飾りもつけられ、華やいだ雰囲気になっているのに、自分だけがその賑わいから遠ざけられているように感じられるのです。
 なんで、猫に生まれてきてしまったのだろう、と蓮二は思いました。猫は本もわからないし、おてても小さくてパソコンも打てないし、お話もできません。切原君に(がんばれ)と言ってあげたくても、(にゃあ)としか言えないのです。クリスマスにはプレゼントがもらえるんですよ、とみづきが言っているのを聞いて、
(猫缶なんかもらうよりも、人間に生まれ変わりたい)
と蓮二は真剣に思いました。だけど、どうすることもできません。
お御堂のマリアさまの前に行って、その気持ちを一生懸命に訴えてみました。マリアさまはなんにも言ってくださいませんが、白いそのお顔を見ていると(人間にもつらいことはたくさんあるのですよ)とおっしゃっているように思えました。蓮二は余計に悲しくなりました。
元気のない蓮二に同情してくれたのか、真田先生がお部屋に入れてくれました。
「寒いだろう。もう冬だからな」
 机に座っていると、先生は背中を撫でてくれ、しばらくたってから少し深刻な顔をして言いました。
「お前は、大学が好きか?」
(好きですよ。猫はここで生まれたんですからね…だけど、どうして?)
 そう思いながら蓮二が先生のことを見ると、先生は口ごもりながら切り出しました。
「よかったら、俺の家で飼ってやろうか。マンションだから外には出してやれないが、飯もちゃんとあるし温かいところで寝られるぞ。幸村も、お前が好きだそうだし」
(先生のおうちの子にしてくれるのですか?)
 蓮二はおめめをまあるくして驚きましたが、それもいいかなという気がしました。大学にいるよりも、真田先生のおうちにいるほうが、悲しくなることは少ないのかなと思ったのです。もしかしたら幸村たんが蓮二にもものすごい手編みの首輪とかを作ってくれやがるかもしれませんが、猫は猫らしくこたつで丸くなっているほうが、しあわせなのかもしれません。
(そうだ…猫はどうせお勉強もできないんだから。大学にいたって、しかたがないんだ)
 それで、蓮二はみんなにお別れを言うことにしました。エージは「いいにゃあ、オレもいきたい」と言いましたが、みづきは「蓮二クンがいなくなると、淋しいですね」と名残を惜しみました。ジロはとても言いにくそうに「まあ、うまくやんなよ」とささやきました。幸村たんとうまくやれるかどうか心配してくれているのだな、と蓮二は気づきましたが、そこは気にしないことにしました。
 しかし、サエだけは真剣に反対しました。
「今まで野良で楽しくやってきた奴が、飼い猫になって幸せなもんか。蓮二、おまえ、やけになってるだろう」
「そんなことはない。冷静に将来のことを考えたまでだよ」
「後ろ向きなやつめ」
 サエはまだ何か言いたいようでしたが、言っても無駄だと思ったのか、無念そうにその場を立ち去りました。蓮二は切原君にも最後にお別れを言いたいなと思い、経済学科のお部屋がある建物へ彼を探しに行きました。夜になっても学生さんが大勢勉強しているらしく、あちこちのお部屋の灯りがついています。
「卒論提出まであと1日」と書かれたカレンダーがドアに張ってある部屋があります。
(明日が締切なのか! 切原君は、ちゃんと書けたかなあ)
 急に不安が募ってきて、蓮二はうろうろと建物の周囲を歩き回りました。ちょうど、お掃除のおばさんがいたので蓮二はおばさんがよそ見をしている隙に、ゴミを集める大きなカートに乗り込みました。中にはゴミが満載でとんでもない臭いがしましたが、おばさんはカートを押してエレベーターに乗り込み4階まで行きましたので、こっそり建物に入りこむことができました。
 学生さんたちはコピーを取ったり紙に綴じ穴を開けたり、みんな忙しそうです。
 切原君はどこにいるのだろう。だけど、猫が来ても何のお手伝いもできない。猫の手を貸したって、何の役にも立ちはしないや。そう思って蓮二はすっかり落ち込んでしまいました。
(猫なんてゴミと一緒に捨てられてしまったほうがいいんだ…)
 悲しくなって、非常階段のすみっこでいじいじしてるうちに、すっかり夜も更けて大方の学生さんは帰っていき、守衛さんが懐中電灯を持って巡回に来る時間になりました。蓮二がとぼとぼ帰ろうとすると、まだ灯りがついている研究室があります。そおっと中をのぞくと、まあまあ、なんということでしょう、切原君が机に突っ伏してぐうぐう寝ているではありませんか。
(切原君! 提出は明日でしょう、だいじょうぶなんですか?!)
 机の上の様子を見ればどうも、まったく大丈夫なようではなさそうです。蓮二は慌てて彼を起こそうとしましたが、いくらにゃあにゃあ言っても目を覚ます気配すらありません。
(切原君、このままでは、卒業できないですよ! おねがいですから起きて…)
 そう言いながら蓮二は考えてしまいました。切原君がこのまま卒業できずにもう一年この学校にいてくれたら…と。
(いや、ダメだダメだ、そんなこと! 乾先生だって寂しくても我慢してカヲルちゃんを送り出したんじゃないですか! 猫だって、切原君に将来立派になってほしいんです、だから、絶対に…)
切原君は、ちゃんと卒業させてあげなくては! でも、どうすればいいのでしょう。蓮二が焦りながら途方に暮れているうちに、守衛さんの足音がどんどん近づいてきます。
(どうしよう、守衛さんに見つかったら、猫は追い出されてしまう…)
 泣きそうになった蓮二の前に突然、お御堂のあの白いマリアさまの姿があらわれました。マリアさまはやさしく微笑んでいました。
「あなたの気持ちはよくわかりました。今だけ、望みを叶えてあげましょう」