じきに、秋がきました。
 キャンパスの銀杏の並木はすっかり黄色くなり、日が落ちると冷たい風が吹くようになりました。蓮二のおうちの箱はぷちぷちのシートで覆ってありますので暖かくて助かりますが、おうちの入り口の穴からはやっぱり風が入ってきてしまいますので、蓮二はときどき、乾先生のお部屋はよかったなと懐かしく思いました。
 学園祭のときに、切原君を見かけました。テニス部の子たちと模擬店で焼きそばを焼いていました。忙しそうでしたので、蓮二は少し離れたところから眺めていました。切原君は後輩たちに「先輩、こんなとこで遊んでて卒業できるんですか」と心配され、「へーきへーき」とへらへらしていました。
「本当に大丈夫なのかなあ」
「ああいうタイプは、最後は駆け込みでなんとかなるもんだにゃ。先生や職員の人が同情してくれるからな!」
 エージがウインクして言い、模擬店に近寄っておねだりしました。テニス部の子たちはエージのことを「にゃーこ」と呼んで、焼きそばをくれました。
「レンレンももらったら」
 エージがこっちを向いて呼んだので、学生さんたちが木の陰に隠れていた蓮二を見ました。
「あ、蓮二じゃないか。こっち来いよ」
 切原君が大きな声で言いました。蓮二は嬉しくなって、でもちょっと気恥ずかしいので、もじもじしていました。すると、切原君が豚コマの切れ端を持ってそばに来てくれました。
「久しぶりだなあ、元気だったか」
(猫は元気ですよ、切原君もお元気そうでなによりです)
 蓮二はそう言って、ご挨拶代わりに頭を切原君の手にすりつけました。すると切原君は「よしよし」と抱き上げてくれ、しゃがんで膝の上に蓮二を乗せて、肉を食べさせてくれました。蓮二はとてもとても幸せで、ずっとだっこしていてほしいと思いました。
「なあ、お前知ってるか。こないだの真田、何だったんだ。20分たっても来なかったから自然休講ってことになったんだけど、あいつがバックレるなんて前代未聞だよなあ」
(ええっ?)と蓮二は目を丸くしました。真田先生が無断で休講するなんて、そんなこと、とても信じられません。確かにここ数日、先生の姿を見ませんが、学園祭期間は騒がしいからおうちでお仕事されているのだろうと思いこんでいました。
「なんか気味悪いからさ、研究室に顔見に行ったんだけどあいつ、その日結局来なかったみたいじゃん。郵便物とかそのままになってたし」
(も、もしかしたら……)
 先生の恋人さんに、何かあったのでは…蓮二は切原君の膝の上でぷるぷると身震いしました。すると、切原君も何か聞きたそうに、蓮二のまあるいおめめをのぞきこみました。
(切原君、猫は先生のお部屋に行ってみます。お肉をごちそうさまでした)
 蓮二は「にぃーん」と言って切原君の膝から降りました。切原君が心配げな顔になって、
「蓮二、俺、もう一回真田の部屋見に行ってやるよ」
と言いましたので、蓮二は猫道を通らずに切原君の後をとことこついて行きました。切原君はエプロンをかけたまま、さっさと人ごみをすり抜けていきます。途中で、
「お前、危ないからちょっと俺に運ばれろ」
と切原君がいきなり蓮二をすくい上げましたので、蓮二は心臓が止まるほどびっくりしましたが、おとなしく切原君にだっこされていました。切原君は校舎の中に入り、真田研究室の前まで来ましたが、やはり先生の部屋の前の札は「不在」のままで、扉についているポストは郵便物で溢れていました。
「来てねえな…どっかでくたばってやがんじゃねえか?」
(ねえ切原君、景吾たんに言ったほうがいいです。もしかすると真田先生の恋人さんに、タイヘンなことが!)
 蓮二は一生懸命、切原君を見上げて訴えました。でも、猫のお口からは「にぁにぁ」という声しか出てきません。切原君は蓮二の頭をよしよししてくれましたが、言いたいことをわかってくれるようではありませんでした。蓮二は泣きたくなってしまいました。
(ああ、どうしよう、まったく、なんてつらいことだろう。猫が人間の男の子だったら、切原君と一緒にお勉強をしてテニスもして、たくさんお話できるのに。マリアさまにそうお願いすればよかった。猫は切原君が卒業しちゃうのは、ほんとはさみしいです。学生さんが立派になって就職していくのはうれしいことだけど、カヲルちゃんもいなくなっちゃったし、ほんとは、切原君にずうっとずうっとこの学校にいてほしいですよぅ!)
 訴えているうちにとってもとっても悲しくなって、蓮二は切原君のまわりをぐるぐる回りながら「わあーん」と泣いてしまいました。そこへ、よれよれの白衣を着た黒縁眼鏡の男の人が通りかかりました。
「おやおや? いま、何か言ったのは蓮二かね?」
(……乾せんせい!)
 乾先生は眼鏡を直しながらこっちを見て、「ほう!」と顔をほころばせました。
「大きくなったねえ。お前さん、すっかり大人らしくなったじゃないか。元気かね」
(え、えっと…)
 蓮二は、みっともないところを見られてしまったと思い、猫なりに恥じらって毛づくろいをしてみました。乾先生はそんなことにはまったく構わず、以前と変わらぬ様子でしゃがみこむと蓮二のほっぺをむにむにともみくちゃにしてから、やっと気づいたように切原君を見ました。
「真田先生の学生さんか。きみが、この子の面倒を見てくれているのかい? こいつはとてもお利巧でいい猫だから、可愛がってやってくれ。名前は蓮二だよ、電子レンジのレンジだ…そう言うとカヲルちゃんに怒られるんだが」
「知ってるッス、書いてあるし。いや、俺は、あの」
 切原君はあっけにとられて乾先生を見ていましたが、ようやくこの人も先生らしいということに気づくと、急いで言いました。
「俺、英文じゃないッスけどこの先生の英語とってて…こないだ、珍しく自然休講だったんでおかしいなと思って見にきたんスけど、なんか、ガッコ来てないっぽいッスね?」
「ややっ? 確かに」
 乾先生は真田先生のドアポストからこぼれている山盛りの郵便を見て、そこに近づき首を傾げました。
「どうなさったのかな…実に珍しいことだな、先生がお休みなんて。盆も正月も学校に来てるのは、俺と真田先生ぐらいのものだと思ってたが」
 思案していると、廊下の向こうからこつ、こつという足音が聞こえてきました。真田先生か、と思って待ち構えていた2人と1匹の前に現われたのは、
(あ、あなたは…あの写真の!)
 蓮二にはすぐにわかりました。それは栗色の波打った髪を垂らした、あのやさしそうな美人さんだったのです。乾先生と切原君はけげんそうにそのお客様を見ましたが、蓮二が(にゃー)と言うと美人さんはすぐに顔をほころばせました。
「あー、きみが、弦一郎が言ってたレンジくんだね! 弦一郎の部屋、お留守番しててくれたんだね!」
「あ、あのう、そちらはどちらさまで…真田先生は、どちらに」
「うちにいますよ。彼、寝込んじゃって…」
 正体不明の美人さんが真田先生の部屋の合鍵を取り出したので、乾先生と切原君は二人揃ってアホ面をさらして見守っていましたが、そこへ理事長の景吾たんが、珍しく焦って飛んできました。
「ゆ、幸村、てめえ、いつ退院したんだ! 電話よこせって言っただろ、てめえ一人で大丈夫なのか」
「ちょっとキャンパスの中で迷っちゃったけど、たどりつけたよー。弦一郎が具合悪いから、郵便と留守電をチェックしにきてあげたんだ」
「そんなこたぁ、俺に電話一本よこせば忍足に…」
「いいの、いいの。心配しないで、俺にだってこのくらいできるよ、弦一郎にもおかゆ作ってあげたんだからっ!」
「なッ…それでわかった。真田が急病なんてありえねえと思ったが、てめえの料理のせいか」
 景吾たんは愕然としつつも理事長の威厳を取り戻し、いかにもトロくさい手つきで鍵を開けようとしている美人さんを払いのけて自分でドアを開き、さっさと中に入っていきました。
「あのうぅ、真田先生は、だいじょーぶ…なんでしょうか?」
 切原君が恐る恐る聞くと、美人さんはにこにこ笑って「大丈夫だよー、明後日ぐらいには、復活するとおもうよー」とのんきに言い、景吾たんに「いいから入れ」と腕を引っ張られて部屋の中へと消えました。乾先生は「そりゃ何よりだ」と帰っていきましたが、切原君は素早く蓮二を抱き上げ、「ずらかろうぜ」とささやきながら小走りに逃げ出しました。
(あれは真田先生の恋人さんなんです。病気が治ったんですね、よかったです)
 蓮二は切原君に教えてあげましたが、(恋人さんが元気になったと思ったら、今度は真田先生が急病だなんて、運の悪いことだなあ)と思いました。切原君は蓮二をしっかり抱え寄せて、
「だって、なんか只者じゃねえオーラを感じるよ、あのヒト…」
と怖そうにつぶやき、身震いしました。