蓮二は切原君がなんとなく好きになり、また会いたいなと思いました。
 でも、彼が学校の中のどこらへんを徘徊しているのかわかりません。テニスコートまで行ったら会えるのでしょうが、運動場のほうに行くには車が走っている道路を渡らないといけないのです。そこは蓮二のお母さんが車にひかれて死んでしまった場所ですから、どうも通るのが怖くて、大きくなった今も躊躇してしまうのでした。
 真田先生の研究室の窓辺に座っていても、あまり面白いことは起こりません。先生はいつも一人で熱心に仕事をしていて、仕事が終わればすぐ帰ってしまうからです。でも、蓮二に気づくと、窓を開けて中に入れてくれることもありました。そういうときは蓮二は部屋の中を見回して、先生の本のコレクションを眺めました。立派な金文字で書かれた背表紙の英語の本がたくさんありました。
(あれはみんな本というものだ。乾先生も沢山持っていたな。猫も、本がわかるようになりたいものだなあ)
 蓮二はそう考えましたが、真田先生の開いている本を見ても細かい模様のようなものがいっぱいついているばかりで、何だかさっぱりな上に、カビのような匂いがしました。でも、本がわかったらきっと大層おりこうになれるでしょう。猫のおててではページもめくれませんが、いつか人間に生まれ変わって本がわかるようになりたいな、と蓮二は心の底から願いました。
 ある時、先生の机の上に座って本を見ていると、
「よう、真田、元気か」
と理事長の景吾たんがふらりとやってきました。そばには景吾たんの腹心と呼ばれている、広報室長の忍足さんがくっついていますが、「忍足、てめえは外せ」と言われて「へいへい」と外へ行ってしまいました。
 真田先生と景吾たんはなにやら秘密めいた話をしていました。どうも学内政治のごたごたについてらしく、ゴシップが大好きなみづきなら大喜びするでしょうが、蓮二はあまり興味がないのでぼんやりと聞いていました。
「やはり理工学部は、手塚先生にリーダーシップを発揮してもらうのがベストの策だろう」
「手塚か、仕方ねえな。俺様が頭を下げてやるとするか」
 景吾たんはいまいましそうに舌打ちをすると、蓮二に気づいて机の上を眺めました。
「なんだ、その毛玉は。てめえのか」
「いや、俺の猫ではないが、前にここにおられた乾先生に可愛がられていたようで、よく慣れている」
 真田先生は立ってきて蓮二を軽く撫でてくれました。景吾たんの視線は蓮二を通り越して、そばに置かれた写真立てに移りました。
「……幸村は、どうしてる」
「相変わらずだ」
 景吾たんがぼそっと言うと、真田先生も目を伏せたまま答えました。景吾たんはじっと写真の美人さんを見ていましたが「てめえも辛いな」と一言つぶやいてまた、ふらりと出ていきました。
 後でジロに尋ねると、景吾たんと真田先生と美人さんはずっと昔、同級生で仲良しだったのだそうです。
「真田せんせのつきあってる人はさぁ、景吾たんとちっちゃい頃から知りあいらしいんだけど、重い病気でもうずーっと入院してるんだよね。景吾たんはあんまし顔には出さないけど、その子のこと、すっごく心配してるんだ」
「ほほう、いわゆるひとつの、三角関係というやつですね」
 みづきが目を輝かせて舌なめずりしましたが、ジロは口を尖らせて首を横に振りました。
「ちがうよ、そんなんじゃないやい。景吾たんは純粋にその子が好きで、大事にしたいと思ってるだけだよ。みづきみたいなそんな下世話な話じゃないの。もっとピュアな気持ちなの」
「まあ、理事長にはユーシさんがちゃんといるもんな」
「あの関西弁にいちゃんも景吾たんに振り回されて大変そうだけど、よーやるわにゃ」
 サエとエージが言うのを聞いて、蓮二は景吾たんと忍足さんがそういう関係だったのかと初めて気づき、大人の事情に疎い自分が恥ずかしくなりました。
(純粋にその子が好きで、大事にしたいと思ってる…かあ)
 乾先生もカヲルちゃんのことを、そう思っているんだろうな、と蓮二は思いました。
 友達と別れた後、蓮二はお御堂に行きました。お御堂はいつでも誰でも来てよろしい、というところなので、戸は開いています。神父さまや信者さんたちも猫にやさしいので、中に入っていても邪魔にならなければ怒られません。
(真田先生の恋人さんの病気が、早くよくなりますように)
 お御堂のマリアさまの前に蓮二はかしこまって座って、頭を垂れました。猫のお願いを聞いてくださるものかどうかはわかりませんが、白いマリアさまは(わかりましたよ)とうなずいてくださっているように見えました。
(猫には何もできませんので、マリアさま、どうぞよろしくお願いします)
一生懸命お祈りしてから、ちょっと考えて(それと、切原君がちゃんと単位を取れますように)と付け加えておきました。