暑い夏は毛皮を着ている猫にはあまり有難い季節ではありませんが、大学は学生さんがいなくて静かなので、猫たちは涼しい場所を探してのんびりすごしていました。
「昨日、海堂クンがお里帰りしてきていましたねえ。義理堅い子ですね。蓮二クンのところにも会いにきてくれましたか」
 みづきが尋ねたので蓮二は(うん)とうなずきました。海堂君は窓の外に置かれている「れんじのおうち」を発見すると飛んできて、懐かしそうに箱の中をのぞきこんだりしていましたので、蓮二は駆け寄っていって(カヲルちゃん、お元気でしたか!)と叫びました。海堂君は、あの海堂君が、とびっくりするほど嬉しそうにして蓮二をだっこしてくれました。
「カヲルちゃんは昔、テニスやってたって知ってた? 真田先生に話しかけられてて、そう言ってたんだ」
「へえ。それは少々意外ですねえ。あんなおとなしそうな子が」
「めっちゃ強かったらしいにゃ。中学で全国大会まで行ったことあるんだって」
「そりゃ大したもんだ」
 銀色のきれいな毛をしているサエが感心しました。サエは最近大学にやってきた猫で、以前は海のそばに住んでいたそうです。運送屋さんのトラックに乗って都心まで来てしまったという、冒険家なのです。
「俺が生まれた浜の近くにも、テニスが強い中学校があったんだ。よく遊びにいってた。あいつら、今頃がんばってるだろうな。オジイも元気かなあ」
「ここの大学のテニス部はどーにゃの? 強いの?」
「なかなか大したやつがいるよ。俺、コートで一度見たことある」
 サエはキャンパスをあちこち出歩いていますので、いろいろなことに詳しいようでした。どちらかというと出不精の蓮二は、サエが言うのを聞いてびっくりしました。
「経済学科の切原くんって子だよ」
「え、もしかしてあの、もさもさした…」
「蓮二、あの子知ってるの。あいつは凄いね、学内オープンで2年連続で優勝してるって」
 あんな悪い子ちゃんが、そのような…蓮二は非常に意外に感じて、サエについてテニスコートまで見物に行ってみました。すると確かにあの切原君が、目の覚めるようなショットで対戦相手を斬って捨てていました。コートの中では別人のように凛々しくて、ポイントを決めるたびに女の子が周りで黄色い声を上げています。
(あいつがあんなテニスの王子様だったなんて…)
 蓮二はいくらか彼を見直す気になりました。
 切原君は夏休みの間もよく学校に来ていて、お昼どきは学食で一人でラーメンをすすっていたりしました。猫たちは昼すぎに学食のおばちゃんに残り物をもらったあと、学食が空いているとちょっとだけ中に入れてもらって涼んでいることがありましたが、そういう時に見かけると蓮二は遠くから彼を観察しました。もさもさしてはいますが、それなりに格好の良い男の子といえないことはないでしょう。一生懸命にテニスの練習をしているようで、鼻の頭にすり傷をこしらえていたりもしました。
 ラーメンを食べ終わると切原君は手洗い場から雑巾を持ってきて、テーブルの上にこぼれた汁をきちんと拭き、おばちゃんに挨拶をして帰っていきます。「体育会の子はみんな礼儀正しいね」とサエが言いました。
「基本的にいい子たちなんだよ。ちょっと、おバカなやつもいるけど」
「よっぽどテニスが好きなんだろうね、勉強より…」
「猫もいろいろ、人間もいろいろだよ。蓮二は真面目だからけしからんと思うんだろうけど、世の中ってのは広いし、いろんな人がいるんだ。大学でやりたいことも人それぞれなんだよ」
 サエは片目をつむって笑いました。蓮二は、確かにそうかもな、と思いました。サエと違って自分は大学の敷地からほとんど出たことがありません。なにせ乾先生の研究室でみんなに優しく面倒を見てもらってぬくぬくと育った猫ですから、世間知らずもいいところです。
 学食を出ていく切原君に蓮二はついていってみました。彼は自動販売機でコーラを買った後、お御堂のそばの芝生のお庭に行って樹の下に寝転び、そのうちお昼寝をはじめましたので、蓮二はそっと近寄ってそばのベンチの上から見守っていました。
(あのときはゴメンなさいね)と、言いたい気がしました。でも、カンニングはやっぱりいけませんよ、とも思います。どうしようかな、と迷っていると、切原君が目を覚まして起き上がりました。
「あっ! どっかで見たと思ったら、お前はこないだのお節介やきのニャーだな!」
 目をらんらんと光らせて彼が言ったので、蓮二は思わず固まってしまいました。
「あんときはジャマしてくれたなあ」
切原君はにまっと笑って手を伸ばし、蓮二の頭をつかむとごしごしと乱暴に撫でました。
「でも、礼を言うぜ。俺、反省したんだ。大学生になってもちゃんと叱ってもらえるって、考えてみりゃ有難えことだからなあ。叱ってももらえなくなっちまったら人間おしまいだぜ」
(おこってないですか)と蓮二は上目遣いをして小声で聞いてみました。(にーう)としか聞こえなかったのですが、切原君は楽しそうに「お前、テンペスト真田の猫か? じゃあ、名前はシェイクスピアか?」などと言いながら蓮二をさんざん撫で回しました。
「ちゃんと首輪に書いてあるな。れんじ?っていうのか? 変な名前だなあ」
(はい、自分でもあんまりな名前だと思いますが、乾先生がつけてくれたので、返上するわけにもいかずそのまま使っています)
(みぃんみぃん)と蓮二は撫で殺されそうになりながら息も絶え絶えに返事をしました。
「よく見るとなかなか賢そうな顔だな。いい猫だ」
 切原君は蓮二をひょいと抱き上げると「真田んちまで連れて帰ってやるぜ」と中庭に運んでくれました。蓮二が切原君の肩に乗っているのを見つけたみづきとジロが、目を丸くしました。
「蓮二クン、大丈夫ですか?」
「逃げなくて平気なの?」
 たぶん大丈夫、と蓮二は目くばせし、切原君が下ろしてくれると(ありがと)と尻尾を立てて足元にすりすりしました。切原君は「また遊ぼうぜ」と言って戻っていきました。