7月になって、学生さんがコピー機の前に列を作る季節がやってきました。
 キャンパスがにわかに騒がしくなるこの時期、いつもの散歩コースにも人があふれているので蓮二は掲示板の後ろの塀の上に避難していました。掲示板に張られた試験の日程やらレポート課題の期限やらを眺めている学生さんたちが、さかりのついた猫よりひどい声でぎゃあぎゃあと鳴きわめいていてうるさいったらありません。
 ひときわ大声で叫んでいるのはエージをいつも可愛がってくれている子たちでした。
「畜生、やられた」
「真田め。あんなところを出すなんて」
 髪の毛がつんつん逆立った大柄な男の子と、前髪を長く垂らした男の子が叫びあっています。お気の毒ですが勉強してない自分たちが悪いんでしょ、と蓮二はクールな感想を抱きました。その子たちの隣では、茫洋とした雰囲気のロングヘアの男の子が何やらぶつぶつとぼやいていました。
「先生はいいよね、学生の払った学費から給料をもらって、呑気にしていられるんだから。社会学の千石先生なんて、前期中3回も休講だったんだせ」
「ああ、統計法の手塚先生にそれくらい休んでほしかったなあ」
 きみらは何しに大学に来てるんだ、と蓮二は憤然としましたが、こういう子たちも性格は至って良くて、猫にはしょっちゅう焼き魚の皮や、フライドチキンの肉が残った骨をくれますので、そのご恩を思うと引っ掻いてやるわけにもいきません。
 校舎の間の狭い猫道を潜り抜けておうちに戻ると、研究室から真田先生の怒鳴り声が聞こえてきました。
「たるんどる! そんな言い訳は聞かんぞ」
「ほんとにスイマセンでした、もう二度と遅刻しないようにマジで気をつけますから、小テストを受けさせてください」
 窓からのぞいてみると、ちょうど一人の学生さんが先生に叱られているところでした。猫みたいにちょっと吊り上った大きな目で、黒い髪の毛がもさもさとした男の子でした。愛嬌のある顔立ちで、もうちょっと毛づくろいをすれば、見栄えがするのに、と蓮二は思いました。
「だいたい君は遅刻して入ってきておいて、授業中また寝ていたりするのはどういうことなんだね、切原君」
「すいません…俺、まだ成長期みたいで。寝る子は育つって言うじゃないスか、へへ」
「大学4年にもなって何を言っとるんだ、まったく。仕方がないな、もう一回だけチャンスをやろう。そこに座りなさい」
 切原君と呼ばれた学生さんは先生の机に座らされ、テストの紙を渡されて一生懸命書き始めました。先生は応接セットに座って本を読んでいましたが、途中で英文学科事務室の人が用事で先生を呼びにきました。
「私が戻ってくるまで続けていなさい」
 先生は切原君を残して出ていってしまいました。先生がいなくなると、切原君は急に目を輝かせて、部屋の中をきょろきょろ見回し始めました。
(こやつめ)
 カンニングするつもりだな、と見抜いた蓮二は、脅かしてやろうと思い忍び足で窓辺に移動しました。切原君は、真田先生の本棚から勝手に辞書を取り出し、いそいそと戻ってきて辞書を引き始めましたが、ふと顔を上げて一瞬ぎょっとしました。
「な、なんだ、猫か…」
 切原君は(やれやれ)という顔になってまた辞書を見始めましたが、恐れる様子もなくまん前に座っている蓮二がさすがに気になるらしく、時々窓の外をちらちらっと見ます。蓮二は威圧的に毛を逆立てて、精一杯身体を膨らませながらわざと仏像のような怖い顔をしてみせました。
「猫、何してんだよ。あっちいけよ」
(天は見ておられますよ、切原君。猫も見ちゃいましたよ。うそつきは泥棒のはじまりと言うではありませんか。きっとばちが当たりますから、そんなせこいことはおよしなさい)
 そういう念をこめて切原君をじっとにらんでいると、彼はそのうちにだんだん困ったような表情になり、とうとう「ちぇっ」とつぶやいて辞書を本棚に戻しました。
(それで良いのです)と蓮二は言ってあげました。真田先生も戻ってくると切原君のテストを見て「まあいいだろう」と言いましたので、切原君は命拾いし、蓮二も自分のしたことを大変満足に思いました。