研究室の学生さんたちに送られて海堂君はアメリカへ旅立っていきました。
 そして、乾先生もお引越しをすることになりました。大学に新しい建物が建って、物理学科の先生たちはみんなそこに新しい研究室がもらえることになったのです。
「蓮二も一緒に来るかい。でも、犬は人につくが猫は家につく、って言うからなあ。それに、今度の俺の部屋は7階なんだ。そんなところじゃ自由に出入りできないし、猫には住み心地は悪かろうよ」
 片付けられない乾先生は学生さんたちに世話を焼かれながら途方にくれていましたが、「そうだ」と「れんじのおうち」と書いてある箱を濡れないようにお引越しの荷物を包むぷちぷちのついたビニールシートで包んで、窓の外に置いてくれました。
「時々は見にきてあげるから、この辺で暮らしなさい。いずれ別の学科の先生がここに引っ越してくるだろうから、その先生に可愛がってもらえるといいね」
(猫は大丈夫です、大学の人はやさしいし、友達もいますからどうにかなります。先生こそがんばってください、今度のお部屋はオートロック式だそうだから閉め出されないようにお気をつけて)
 頭を撫でてくれた乾先生に蓮二は言いました。春休みの間にお引越しが終わり、研究室は空っぽになってしまいました。
 乾先生の研究室の外は中庭で、窓の下には今まで乾先生があちこちでもらったり、学生さんが持ってきたりした鉢植えの残骸がいっぱい放りっぱなしでした。「れんじのおうち」と書いてある箱は、サボテンやアロエの鉢が並べてある古い机の上に置かれました。蓮二が箱に入って窓の外から見ているとある日、誰かのお引越し荷物が運ばれてきました。
「僕は知ってますよ。次にここに来るのは、英文学科の真田教授です」
 学内のお御堂に住んでいる、黒猫のみづきがやってきて得意そうに蓮二に教えました。
「貧乏くじですね。あの先生はシェイクスピアなんか諳んじてお高くとまっているから、こういう時にボロい部屋をあてがわれるんですよ」
「どんな先生だい? こわい?」
「そりゃもう、あなた。学生にはテンペスト真田と呼ばれていますよ」
 気取り屋のみづきは毛づくろいをしながら答え、「嫌な目に遭ったらお御堂に移ってきてもいいですよ、蓮二クンなら歓迎します」と言い残して帰っていきました。
心配になった蓮二は箱の中に隠れていました。しばらくすると、ツイードの三つ揃えのスーツをびしっと着こなしたハンサムな先生が入ってきました。先生はジャケットを脱いで腕まくりをすると、一人で黙々と段ボールの箱を開け始めました。
(かっこいい先生だな。乾先生とは大違いだ。やっぱり文学部は違うな、いや、理工学にもおしゃれな先生はいたけど)
 蓮二はそおっと箱の中から部屋の中をのぞいていました。その先生は荷物の中から写真立てを取り出して、大事そうに机の上に置きました。
(何の写真かな?)
「好奇心、猫を殺す」という英語のことわざがありますが、その言葉通りの猫なので蓮二はつい、箱から首を出してしまいました。伸び上がって見ると、写真に写っているのはきれいな栗色の波打った髪を垂らしたやさしそうな美人さんでした。
「何を見ているのかな、猫くん」
 声が聞こえたので蓮二は飛び退きました。ハンサムな先生が窓を開けてこっちを見ています。
「……れんじ、というのは君のことかな? 引越しそばを振舞わねばならんかな」
 箱を見て先生はふふっと笑い、サボテンの陰に隠れた蓮二に呼びかけました。
「俺の恋人はチャーミングだろう。そのうち実物に会わせてあげよう。あいつが退院したら…」
 先生はちょっぴり、淋しそうな顔になって荷物の片付けに戻りました。そんなに嫌な先生ではなさそうだけど、ごはんはくれないかもな、と蓮二は思いました。乾先生と違ってとても几帳面できれい好きの先生のようだったからです。
「真田先生は結構、いい人みたいな気がするよ」
「授業はすげえ厳しいらしいけどにゃ! 桃ちんや神尾がこぼしてたぜ。真田の英語が当たったクラスは死ぬって」
 学生食堂の裏に住んでいる茶トラのエージが言いました。この大学の敷地内で暮らしている猫はたくさんいるので、情報交換のために週に2回ぐらい、夜に集会を開いています。エージは体育会の男の子たちに可愛がられていて、よく彼らに残飯をもらっているので学生さんの事情に詳しいのでした。
「真田せんせは学界では有名人なんだぜー! すっげえ本とか書いてるらしいよん。あの人去年、サバティカルでスコットランド行ってて、いない間に勝手に部屋決められちゃったんだって。なんか、業績多くて景吾たんに気に入られてるから、一部の教授に妬まれてるらしいよー」
 巻き毛のジロが大きな目をぱちぱちさせました。景吾たん、というのはこの学校の理事長のことです。ジロは理事長室の屋根裏に住んでいる猫で、理事長秘書の向日さんや日吉さんに可愛がられているので事務室に入れてもらったり、理事長の運転手の樺地くんからおいしいものをもらったりして、のうのうと暮らしているのです。みづきもお御堂の神父さまや修道会の寮に住んでいる人たちにごはんをもらっていますし、皆それぞれに気にかけてくれる人がいるのは、大学猫のお得なところでした。
「文学部の先生だから、理工学みたいに研究室に一人助手がついてるわけじゃないし、忙しくて大変そうだけど」
「院生とかいないの?」
「きょうび、英文の院に上がる子なんて少ないでしょ。就職がないから」
 蓮二は先生に同情しました。確かに真田先生はいつもいかめしい顔をしていて、乾先生のようにみんなにいじられて慕われるようなタイプではなさそうでしたが、本当はとても優しい人だと思うのです。ある日など、散歩から帰ってきたら箱のおうちの中にビーフジャーキーが入れてありました。きっと先生がくれたのだと思ったので、翌朝蓮二は窓辺に座って先生が来るのを待っていて、真っ先に(ごちそうさまでした)と言いました。
「おお、蓮二か。おやつは気に入ったかな。律儀だな」
 先生は窓を開けてくれました。蓮二はお辞儀をしてから中に入り、机の上に行儀よく座って美人さんの写真をまじまじと見ました。
「これでお前のことを撮っていいか?」
 真田先生が携帯電話を取り出したので(ああ、写メですね)と蓮二はきちんと座りなおし、尻尾をくるんと巻いてすました顔をしました。
「格好よく撮れた」と真田先生は画面を蓮二に見せてくれました。
「これを、こいつに送ってやろう。大学に猫がいると話したら見たいと言っていた。独りで病院にいて退屈しているからな」
(先生の恋人さんは、入院しておられるのですか?)と蓮二は聞いてみました。蓮二は幸い行ったことがありませんが、ジロは車に尻尾をひかれて動物病院に連れていかれたことがあるそうです。(病気の犬や猫がとじこめられているんだよ。消毒薬の変なにおいがして、やなとこだよ)と言っていました。
 もし、そんないやなところにいるんだったら美人さんもかわいそうだなと思ったのです。それに、ジロはこうも言っていましたっけ。
(病気がよくならなくて、死んじゃう子もいるんだ。箱に入れられて、燃やされちゃうんだって。飼い主さんはわんわん泣いてたよ)
 もしも、美人さんの病気がよくならなかったら……蓮二は先生がとても気の毒になって一生懸命に(先生、元気を出してくださいね)と言ってみましたが、(にゃあん)としか聞こえませんでしたので先生は、
「ありがとうな、また、おやつをやろう」と撫でてくれただけでした。