海堂君や研究室の学生さんに毎日、遊んでもらって蓮二はちょっとずつおりこうになりました。人間のお話を聞いているといろいろなことがわかってお勉強になります。
大学というところになぜ、よく猫が住んでいるのか、知っている人はあまりいません。蓮二自身もおのれの生い立ちを知ってはいませんが、彼らのような大学猫の中には実は、大学がとっても好きだった学生さんや先生の魂が入っているのです。亡くなったあとにまた、キャンパスに通いたいなあと思った人たちの魂を、神様が猫たちにお授けになって大学に送ってくださるのです。
 ですから、ちっちゃい頭にしては彼らは生まれつき割合といろんなことが理解できる猫でした。蓮二は人間がお話しているときはいつも自分もお話の仲間に入っているつもりでしたが、にゃうにゃうとしか聞こえませんでしたので、海堂君は、
「お前は自分が猫って思っていねえな」
と言って笑っていました。
 ある日、海堂君が図書館に行って留守の間に、よその大学からお客さんがきました。温厚そうな年配の立派な先生でした。蓮二はお話に混ざりたくて乾先生の机の上に座っていましたが、乾先生がいつになく真面目な様子でしたので、にゃうにゃう言わないで静かに聞いていました。
 お客さんが帰った後、ちょうど入れ違いに海堂君が戻ってきました。
「今の方、どなたですか」
「山吹女学園大学の伴田教授だよ」
「あっあれが、有名な伴田先生…国際栄養物理学会会長の!」
「海堂、ちょっとそこに座ってくれないか」
 乾先生はコーヒーを2杯淹れてテーブルに置き、海堂君と向かい合いました。蓮二はちょっと変な予感がして、尻尾の先がぴくぴくしました。
「君が欲しいと言われた」
 いきなりそんなパンチを喰らったので、海堂君は凶悪な顔になりましたが、先生はコーヒーの入ったマグを見つめながら静かに言いました。
「この間の君の学会発表を激賞されていたよ。ぜひ、うちに来てほしいとおっしゃっていた」
「お、俺に山女へ来いと……」
「違う、テキサスのメレンゲ工科大にだ」
「はあ?!」
「伴田先生は来年メレンゲに移られるんだ。誰か若くて将来有望な人を連れていきたいといって、君に白羽の矢を」
 海堂君は、理解の範疇を超えた、という意を率直に表情にあらわしました。
「有り得ねえ」
「本人からお礼の電話をさせますとお伝えしたから、明日にでも早速この名刺の番号にかけておいてくれ」
 乾先生はそう言って海堂君の前に白い紙片を起き、マグを持って立ち上がりました。そして呆然としている海堂君をそのままそこに残して、隣の計算機室に入っていこうとしました。蓮二は思わず(先生、待って、本当にいいんですか?)と声をあげてしまいました。もちろんそれは「にゃーおーん」としか聞こえませんでしたが、海堂君はそれを聞いてはっとしたように叫びました。
「俺は行けません!」
「こんなチャンスを棒に振る気か。馬鹿なことを考えるな」
「ま、まだ、先生にいろいろ教えていただきたいことが…」
「冗談じゃない。君が居座っていたら下の子がいつまでたっても助手になれない」
 海堂君は(そんな)という顔のまま立ち尽くしました。乾先生はしばらく黙っていましたが、やがて、優しい声で言いました。
「俺はいつまでも俺にかしずいてくれる弟子を育てたつもりはない。お前は俺を踏み越えて、先に行ってくれなきゃいけないよ。それが生徒の、師たる者に対する務めだ」
「先生……」
「おっと、全学FD委員会の時間だ、忘れてた」
 乾先生は椅子の背にひっかけてあった上着を取り上げ、あたふたと研究室を出て行きました。蓮二は海堂君のそばへ行って、小さな声で言ってみました。
(カヲルちゃん、先生もほんとはさみしいんですよ)
「分かってる」  海堂君はつぶやいて、ずっと蓮二のことを撫でていました。