「れんじのおうち」と書かれた箱に入ったその日から仔猫は蓮二になりました。名前の漢字は、海堂君が姓名判断サイトで画数を調べてつけてくれました。乾先生が学生に「名前はレンジだよ、電子レンジのレンジだ」と言うのにいたたまれなくなったからです。
 真面目な海堂君は蓮二に名前と研究室の電話番号を書いたノミ取り首輪を巻いてくれて、猫用の餌皿も買ってくれました。海堂君は朝早く研究室に来て、夜の9時ごろに帰っていきます。日頃は無口ですが、部屋に誰もいないときは蓮二にぼそぼそと話しかけたり、遊んでくれたりします。
乾先生は、日によってまるで違う時間に研究室にやってきて、大抵は夜遅くまでいます。海堂君が帰ってしまうと先生はテレビをつけて(海堂君は用もないのにテレビをつけているのが嫌いなので)学生の誰かが卒業して郷里に帰るときに置いていったらしいソファに座って、きつねどん兵衛とかそういったジャンクなものを食べ(海堂君がいるときは叱られるので食べない)日によっては冷蔵庫を開けて発泡酒を飲みます。お酒を飲むときは焼鳥の缶詰とか、さばの味噌煮の缶詰を開けて「蓮二も食べるかい」と少し分けてくれます。
「カヲルちゃんには内緒だよ」
 先生はそう言いました。(カヲルちゃんとは誰ですか?)と蓮二は首を傾げて先生を見ました。先生はにやにやして、
「君はずいぶん真面目そうな猫だね。カヲルちゃんと一緒だねえ」
と、蓮二を撫でまわし耳をつまんだりほっぺをむにゅっと引っ張ったりしました。蓮二はちょっと嫌でしたが、焼鳥をもらえるかもしれないので我慢してもみくちゃにされていました。乾先生はそれからため息をついて、
「もうちょっとあいつも、ゆったりすればいいのにねえ。世の中なんて、君ね、物理学だけじゃおっつかないぐらいにそれはそれは広いんだ。見るべきものはたくさんあるよ…」
と言いながらソファに寝そべり、そのうち寝息を立てはじめました。蓮二は焼鳥の缶をじっと見て(缶の縁に触るとおててを切るよと海堂君が繰り返し教えてくれたので)気をつけて爪の先で焼鳥をひっかけ、引っ張って缶をひっくり返して中身を食べました。辺りにこぼれたタレもぺろぺろなめました。そして、退屈になったので乾先生のおなかの上に飛び乗って座り、上がったり下がったりするのを楽しんでいました。そのうち守衛さんが見回りに来たので蓮二はソファの下にかくれました。乾先生は守衛さんに起こされて恐縮していました。
 きつねどん兵衛の残骸と発泡酒と焼鳥の缶をコンビニの袋に片付けながら、乾先生は蓮二に「君も電車に乗って一緒にうちに来るかい」と優しく言いました。
「でも、猫の乗車賃がいくらかわからないなあ。また、今度にしなさい。朝来たときに君がいなかったらカヲルちゃんも淋しいだろうしね」
(カヲルちゃんて、あの人のことですか!)
 やっと理解した蓮二は目をまあるく見開いて、乾先生を見上げました。乾先生は蓮二にウインクすると、例によってドアを開けっ放しで帰っていきました。蓮二はごたごたした研究室の中を見回しながら小さな頭で考えました。乾先生はきっと、あれでもとってもえらいヒトに違いないなあと。先生の作ってくれた箱のおうちにもぐりこんで丸くなりながら、蓮二は明日から海堂君のことはカヲルちゃんと呼んであげようと思いました。