【初出:『できるあかやな本2006』(2006年2月)この話は相当変則的なパラレルなんですけど、自分ではとても気に入っています。大学のキャンパスって、よく猫が住みついているんですよね。】


 のちに蓮二と呼ばれるようになったその仔猫は、この大学の敷地の端っこのほうの、粗大ごみの置き場のパソコンラックの中で、3匹兄弟の長男として生まれました。トパーズ色のきれいなおめめで、白くて頭に黒いぶちがあり、尻尾も黒い小さな雑種の猫でした。
ほかの兄弟はとても小さかったので生まれてまもなく死にました。お母さん猫は、仔猫が生まれてしばらくして車にひかれて死にました。
 お母さんが道の真ん中でぺしゃんこになってしまったのが、どういうことか仔猫にはわかりませんでしたので、近寄っていって一生懸命に「おかあさん」とぺろぺろなめたり、噛んだりしました。それでもお母さんは何も言いませんでした。そのうち大きな音がしてまた車がこっちへ向かってきました。仔猫は驚いて飛び上がり、一目散に走って逃げました。走っているうちにここがどこだか全然わからなくなってしまいました。ふらふらしながら歩いていくと、窓が大きく開けっぱなしの部屋があったのでそこに入ってみました。部屋の中は粗大ごみの置き場とよく似ていましたので、仔猫はここがおうちかと思い、見覚えのあるような箱の中に入ってねんねしました。
 この部屋は理論物理学を研究している乾先生の研究室でした。乾先生は細かいことにこだわらない豪快な性格の天才肌の学者でしたが、そういう天才の常として日常生活は極めてだらしなく、先生の身の回りのことはすべて無口な助手の海堂君が担っていました。海堂君にしても大変優秀な研究者で、その気になればいつでもどこか立派な大学に職を求めることができるのですが、乾先生が心配なのでなかなかこの研究室を離れることができないのです。自分がいなくなったら誰が電話を取ったり、学科の先生の奥さんが亡くなったときに黒いネクタイをキヨスクで買ってきたり、先生の授業の成績をつけたり(これは学生さんには内緒ですよ)するというのでしょう。そういうわけで今日も今日とて海堂君は、先生が机の上に置きっぱなしのいくつかのマグカップを洗い、同様に置きっぱなしのカレーやシチューがこびりついた学食の皿を洗い、電子レンジの開けっ放しの扉を閉めました。
 乾先生は今日も今日とて、いかにも怪しげな『都市伝説』という題の古本を読んでいました。
「ねえ海堂、世の中にはすごい人がいるもんだねえ。洗った猫を、電子レンジで乾かそうとしたら帰らぬ猫になってしまった、慰謝料よこせと電器メーカーを訴えた人がいるんだよ」
「そうッスか。で、勝ったんスか、負けたんスか」
「この本によると、メーカーは本製品で猫を乾かさないでください、という注意書きをつけて売ってなかったから、この人の勝訴だって」
「そうッスか。先生も、学生に訴えられないように気をつけてください」
「猫は何秒ぐらい加熱すると破裂するんだろうねえ」
「……先生、やめてください、そういう話は」
「おや、君ともあろう男が、ずいぶんとまた科学者らしくない態度だね。なにも本当に猫を加熱しようというのではないさ、仮にそうするとしたら、という話だよ」
「……質量によるんじゃないスか」
「まあ、電子レンジに入る程度のサイズの猫、という制限が加わるな」
「中、結構狭いッスよ」
 几帳面な海堂君は電子レンジの扉を開けてみました。そして「おうぇぇえ〜」と驚愕の声を上げました。中に猫が1匹入っていたからです。仔猫はびっくりして電子レンジから飛び出し、乾先生の机の下に逃げ込みました。乾先生は唖然とした後で大笑いしました。
「すごいな、海堂、君が仕込んでおいたのかい」
「ンなわけないでしょう。先生がいつも窓やドアを開けっぱだから、勝手に入ってきちまったんスよ」
 猫の好きな海堂君は、机の下をのぞきこんで「ちっちっ」と仔猫にむかって舌を鳴らしましたが、仔猫はこわくてぷるぷるふるえていました。
「放っておきなさい、気が向けば出てくるよ。ああそうだ、家を作ってやろう…ちょうどそこにいい箱があるじゃないか」
 乾先生は最近アメリカから届いた本が入っていた丈夫な段ボール箱にカッターで四角い穴を開けると、黒マジックを握って穴の上に「れんじのおうち」と書きました。
「仔猫のようだからひらがなで書いてやったよ」
「英語で書いても同じだと思うッス、猫ですから」
 海堂君は乾先生の命名はちょっとどうかと思いましたが、書いてしまったものは仕方ありませんから黙っていました。でも猫は好きなので、何年か前に学生が研究室に忘れていったスウェットパーカのフードのところをはさみで切って布団代わりに入れてやり、先週研究室で宴会があったときのつまみの残りのチーズと柿ピーの中に入っている揚げた煮干も箱に入れてやりました。乾先生は机の下に箱を押し込み、
「さあ、れんじは今日からここに住みなさい」
と言いました。仔猫は見るからに怪しい箱だと思い黙ってじっとしていました。しかし、海堂君がずっと机の前にしゃがんでこっちを見ています。仔猫は長い間がまんしましたがいつまでたっても海堂君がいます。なんというしつこい人だろうと仔猫は思って、根負けして箱に入りました。