「お前は、それでいいのか?」
 あんな酷いことをされて泣き寝入りなんて、俺には許せない。
 幸村の胸ポケットに折り畳んで収められているタイを目にして、さっきのなまめかしい光景が脳裏によみがえった。いきなり、動悸が速くなった。
「よくないよ……」
 幸村は顔を上げて、俺の視線に応えた。整った目元が強張っていた。
「よくないけど……忘れて、頼むから誰にも……言わないで、お願い」
 きっぱりと言った後で、哀願の言葉を付け加えると、
「きみに…あんなとこ見られちゃって、はずかしい…すごく助かったけど、よりによってきみが来ちゃうなんて……僕、きみにだけは知られたくなかった」
 小さなささやき声になりながら、唇を震わせて俺を見る。
 さっきまでの彼とあまりにも違っていて、俺は戸惑った。俺は、だったら、悪いことをしたのだろうか。
「……忘れる。誰にも言わない」
 仕方なく俺は答えた。嘘だ、と思いながら、そう答えた。
 誰にも言わない、は守れても、忘れるなんてできない。
 お前の手首に残る縛めの痕が消えても、俺の中に穿たれた記憶は、決して消せない。




 翌日、部活に出るまでは何ともなかった。
 しかし、先輩に「今日は新2年生同士で」と言われて相手に幸村を指名されたとき、まずいと感じた。うちの学年の中では、俺と幸村は実力的に最上位に近いところにいる。その俺たちが対戦するのだから、事実上の2年生トップ決定戦だ。だが、今日の俺に果たして幸村を倒せるのか。いや、それ以前に、こいつとまともな試合ができるのか。
 幸村は困り果てたように薄く唇を開いたまま、ぼんやりと俺を見つめた。同級生の柳蓮司が来て、俺がジャッジでいいね、と言う。君たちが雌雄を決するのを楽しみにしてたんだ、と言いながら幸村を見て軽く首を傾げ、それ、どうしたの?と指差した。リストバンドをした右手に添えている左の手首にはまだ、痛々しい擦り傷が残っている。
「ちょっとね、平気」
 即座に幸村は言い、心を決めたように見えた。ところが。
 サービスが入らない。審判の柳がちょっと困ってしまうほど、まるで決まらないのだ。
「ユキ、びびってないで思いきりいけよ!」
 幸村と仲のいい丸井が檄を飛ばした。俺の後ろでは桑原が、らしくないなあ、とつぶやいている。俺は幸村の顔色が白くなるのをただ見ているしかない。さすがにここで、皆の見ている前で、具合が悪そうだからやめよう、なんて俺から持ちかける気にはなれなかった。だけど、このままゲームを続けて惨めな思いをさせるのは忍びない。