俺は耐えられなくなり、持っていた「重要判例解説」をわざと床に落とした。鈍い音がして、本棚の向こう側から「誰だ!」という押し殺した声が聞こえた。
 慌ててジッパーを上げたらしい背広の男の前に立つと、幸村が息を呑んだ。
「なんだね、君は」
「こいつの同級生です」
 そう言うと、気障な口髭を生やしたそいつは尊大な態度で俺をじろりと見て、幸村を振り返った。
「どういうことかね」
「真田、なんで、こんな所に…?」
 消え入りそうな声で尋ねられた。手首を結ばれたままで、シャツが細い肩から剥がれ落ちている様子は直視できるものではなかった。怒りがこみあげるのを抑えながら、俺は背広の男に向かって言った。
「付属中の生徒ですから、法学部の先輩に勉強を教えて頂きに来ました」
「ここは中学生がのこのこ入り込んでいい場所じゃないんだ。出て行きたまえ!」
 そいつは声を荒げたが、俺は怯まなかった。中学2年生でも、上背はもう170センチ以上あるし、テニスでなら大人としょっちゅう対戦して負かしている。それに、大体こんな汚らわしい大人の吐く台詞など、まともに聞く気はさらさらなかった。
「あんた、法学の先生なら知ってるだろ。中学生にこんなことするのは、犯罪じゃないのかよ。……合意の上でもアウトだって聞いてるぜ」
 俺がにらみつけると、背広の男は見苦しく歪んだ笑みを浮かべた。
「ふん、友達思いだな。この子と親しいのかね、精市君」
「真田くんは……テニス部で一緒なんです……」
 幸村はソファの上で身をよじりながら男を見上げた。真ん中で分けている髪の毛が乱れて前に垂れ下がっている。
「西園寺先生、僕たち、誰にも言いませんから……」
 そう言った。俺は耳を疑った。幸村はこのレイプ犯を庇おうっていうのか?
「そうかね。なら君達、今日は帰りたまえ」
 男はねめつけるように幸村を見て、俺に視線を移した。
「真田君だね。覚えておこう」
「国関法の西園寺教授ですね。覚えておきます」
 俺はさっき見た名札を思い出して答えた。不愉快そうに眉をひそめて奴は出ていった。廊下に高く靴音が響き、やがて遠ざかった。
 腹立ちのあまり意識していなかったが、やはり緊張していたようだ。背中に冷たい汗を感じながら俺は幸村を振り返った。幸村はもじもじしながら、ごめん、とつぶやいた。みるみるうちに頬が紅く染まり、きれいな形の目が潤んだ。
「そんなことより、大丈夫か」
 俺は慌てて幸村に近寄り、手首を拘束したタイを解いてやろうとした。何重にもきつく結び目が作られている。あの卑劣漢がやったことだと思うと、新たな怒りが俺の中に燃え上がった。俺が結び目に手間取っている間、幸村は小さな音を立てて鼻をすすっていた。ようやく解けたタイの痕が、赤く手首に残っている。皮膚が擦り切れて血が滲んでいた。
「ありがとう……」
 痛々しい傷をさすりながら幸村は俺に言った。瞳に浮かんだ滴がいまにもこぼれて落ちそうだった。