「大人もいろいろ大変なんだよ」
と、幸村は以前言った。何がそんなに大変だというのだろう。子供と違って時間も、金も、いくらでも自由になるというのに。いろいろ大変だと、子供を好きに弄んでも許されるのだろうか。そんな権利を振りかざしていいような立場なんて、俺には想像できない。
 幸村の携帯のほうが俺のものよりカメラの画素数が上なので、作戦実行の前に携帯を交換した。幸村の携帯には、犬のマスコットとシルバーで鍍金された1ペニー硬貨がぶら下がっていた。
 非常階段に潜んで、キスしている2人をカメラに収めたとき、俺は至って冷静だった。万一姿を見られても怪しまれないように、大学のサークル名の入った先輩のウインドブレーカーを拝借して行ったし、もちろん携帯には細工をしてシャッター音を消しておいた。決定的なシーンの画像を入手してやったという満足感はあったが、それ以外に特に感慨などあるはずもなかった。
 だが、待ち合わせた学校のそばの公園に着いて一人で携帯を眺めていると、不思議ななんともいえない気持ちが湧き出してきた。
 幸村のきれいな髪を傍若無人に撫でまわし、逃れられないように抱きすくめて執拗に唇を奪った男に対する、怒りとは別のなにか。これが、嫉妬心なのだろうか。俺は幸村とキスはしていないな、と思って、なんだか惨めな気分になった。片思いや告白どころか、キスまで跳び越えてしまったとは。男としてどうなんだという疑問を感じるのだが、悔やんだところで致し方ない。
 幸村は俺を「完璧な優等生」となじったが、俺だって異性に慕わしい気持ちを抱くことはあるし、刺激的な光景を目にしたら身体が変化することも分かっている。だけど、そういうレベルの問題ではないんだろうな、と漠然と俺は考えた。幸村は多分、連立方程式みたいに複雑な愛憎関係の中で、俺などには思い描くことも不可能な経験をしているんだろう。あんな上級者にはとても太刀打ちできない。
 自嘲的になりながら、俺は幸村にメールでも入れておいてやろうと思って携帯を操作した。他人の携帯だからキーが押しにくい。間違えて着信の履歴画面を見てしまった。俺のフルネームと電話番号が表示されている。確かに、今日家を出る時に電話したから表示されてしかるべきだが、名前の下に小さなハートのマークがついているのは何だろう?
 気になって着信をさかのぼると、着信者名には星とか鉛筆とかのマークがいちいちついている。電話帳のグループごとに違うマークがつけられるらしい。丸井と柳と桑原からの着信にはスペードのマークがついていた。テニス部はスペードなんだろうか?
 でも、俺もテニス部なのだが。
 呆然と小さな赤いハートマークを見ていたら、幸村が姿を現した。