線路の下の道には色鮮やかなグラフィティが上から下までびっしり描きこまれてる壁が、ずっと続いてた。ときどき、過激な英単語や女の人のあそこのシンボルがこれ見よがしに現われて人を驚かす。
 僕はひどい渇きを覚えた。昨日の練習の後から何もまともに摂取してない。まともでない夕食なら食べたけど。西園寺先生はチェックインした後、僕をホテルの上のほうの高級な中華料理の店に連れていって勝手に注文して勝手に取り分けて勝手に食べ始めた。僕は耳だけじゃなく他の感覚まですべてがホワイトノイズに占拠されたみたいな状態になってしまっているから、どんなに美味しそうなものを前にしてもちっとも食べたいと思えない。ほかほか湯気の上がってる蒸篭の中から多分、とても芳しい香りが立ち上ってると思うけどその匂いも感じられない。食べなさい、って命令されるから仕方なく機械的に口に入れるけど、何の味もしない。だんだん、飲み込もうとすると喉が詰まって苦しいような感じがしてくる。僕は箸を置いて窓から外を眺めてた。下のほうに黒く波立つ海が見える。ここから飛び込んだら死ねるかな、と思った。先生と会わなきゃいけなくなるともう、そんなことしか考えられなくなるんだ。
 先生はどうせ二人きりになるまで何も切り出さないに決まってる。僕は後悔で早くも気が狂いそうだった。ごまかし通す自信がなかった。あのメールは僕が送りましたってきっと言ってしまう。僕がとても幼い頃からこの人は僕に脅しをかけ続けている。言うことを聞かないと、どうなると思うかな? 微笑みながらそう言って僕を袋小路に追い詰め、錯乱させる。少し前、偶然テレビで見た。そういうの、ダブルバインドっていうんだって。顔では笑いながらお前が大嫌い、死ねばいいって言ったり、腕とか脚をつねりながら可愛いねって言ったりすると、小さい子はどっちがほんとなのか分かんなくて混乱しておかしくなってしまうんだって。
 確かに僕はずっとそれをやられてきた。先生はいつも紳士的に微笑んで僕を脅した。僕に恥ずかしいことをしようとする前にはきっと、お母さんに言ったら、お父さんにばらしたらこうするよって、僕に怖い絵本を見せて泣かせたり、法医学の教科書を見せて心底怯えさせたりした。いつかどこかで僕より少し年上の男の子が子供の首を斬って学校の前に晒したりしたけど、それと似たような写真をいっぱい見せられた。だからこういう死に方だけは絶対したくないっていう殺され方を僕は沢山言うことができる。かなり具体的にね。
 父親は逆に、蛇みたいな目をしながら口先だけで僕を褒める。お前は本当にいい子、昔から手がかからなくて、自慢の息子だ、将来が楽しみだって自動販売機から流れてくるみたいな声で言う。将来の何が楽しみなんだろう。現在の僕のステイタスもろくに知らないくせに。僕があまりにも母親にだけ似てるから、自分のDNAが入ってないと彼は確信してる。ライオンの群れのボスが交代すると、新しいボスは前のボスが産ませた仔ライオンを食べちゃうらしいけど、うちの父も僕がふにゃふにゃした肉の塊りだった頃にそうしとけばよかったのに。
 食事の終わりに僕はすごく熱いジャスミンティーを熱さに気づかずに飲んでしまって、激しく咳き込んだ。あの人は気持ち悪いほど優しい声を出して僕を気遣うふりをした。そして、エレベーターに乗ってから、いきなり僕の頬に平手打ちを喰らわせた。もうその程度のことでいちいち目に涙を浮かべたりなんかしないけど、その時、自分は地獄にいるんだなと思った。