幸村の病状がある程度、回復した冬のある日、俺がいつものように見舞いに行ったら、幸村が窓の外を眺めながら、独り言のように「図書館に行きたいな」と呟いた。

 「本が読みたいなら、学校から借りてきてやる」
 大学と併設されている俺達の学校には、とても立派な図書館があった。
 「ありがとう」
 幸村がにっこり微笑む。
 「でも、読みたい本は言えば、親が買ってきてくれるから大丈夫」
「そうか」
 少し返答に困って俺はそう答えた。
 「人に頼んで持ってきて貰うんじゃなくて、自分で本が選びたいんだ」
「そういうものか……」
 本を余り読まない俺にはその気持ちは良く分からない。
 「………この部屋から出てみたい」
 とても小さな声で幸村が呟く。
 「でもムリかな」
 そう言って、少し哀しそうに微笑んだ。
 「図書館に行くくらい大丈夫じゃないか?俺が責任持って付き添う」
「え?」
「俺が、医者に掛け合ってやる」


 そうして看護婦さんと医者に掛け合い、幸村の親を説得し、たった二時間の外出許可を取り付けた。リハビリを兼ねた外出許可。
 それが、土曜日の外出許可の始まりだった。
 俺と幸村はそれまで個人的に約束して、二人でどこかに出かけたことは無かった。部活の中で集団で、テニス絡みで出かけることはよくあったけれど。

 冬の寒い日、白いコートを着た幸村は、最初、なんだかおそるおそる、きょろきょろしながら外を歩いていた。
 幸村の病気は運動神経に来るという病気で、その時はまだ下肢に力が入らないなどの症状があった。
 俺は看護婦さんに言われたように、幸村が転ばないように幸村の腕を掴んで支えるようにして、幸村に合わせてゆっくりゆっくり歩いた。

 病院の前のバス停からバスに乗った。看護婦さんがわざわざ見送りに来た。( 礼儀正しい幸村は看護婦さん達のアイドルだった。)
 ゆっくりゆっくり時間を掛けて、幸村がタラップを上るが、バスの運転手さんも親切で、幸村が椅子に座るまで発車を待ってくれた。
 幸村の周りにはいつも特別なゆっくりした時間が流れている。幸村の周りにいると、皆、優しいゆったりした気持ちになるのだ。幸村はそういう人とは違う、特別な雰囲気を持っていた。


 辿り着いた図書館で、
 「本の匂いだ」
 と言って、幸村はとても幸福そうに深く深呼吸した。
 「ありがとう、真田」
 幸村が、とても幸福そうに俺に言う。
 俺はなんだかその時、とても幸福な気持ちになった。
 誰かを幸せな気持ちにしてあげて、それでこんなに幸福な気持ちになれるなんて知らなかった。
 俺はそれまであまりに自分のことばかりを考えていて、他人のことを思いやるような余裕がなかった。

 幸村のためなら何でもしてやる。俺はその時、心から思った。


 幸村はゆっくり図書館を歩き回り、本を取り、慎重に中身を確かめて時間を掛けて丁寧に本を選んだ。
 俺は黙って隣について立つ。
 幸村が背伸びして、高い棚にある分厚い本を取ろうとした。
 「これか?」
 幸村より俺の方が背が高い。腕を伸ばしてその本を取って、幸村に渡した。
 「ありがとう」
 幸村はとても感じよく微笑む。
 それで俺はとても幸福な気持ちになる。


 時間を掛けて三冊を選び、本を借りた。
 帰りのバスの中で、
 「今日は本当にありがとう」
 と幸村にあらためて丁寧にお礼を言われた。ぺこんと軽く頭を下げると、伸びた髪が揺れる。
 「次は二週間後だ」
「なにが?」
「本の返却期日は二週間後だろう?だから次は二週間後だ」
「また僕に付き合ってくれるの?」
「俺が責任を持って最後まで付き添うと言っただろう」
 俺はその台詞を、幸村の外出許可を取り付けるまで、医者や看護婦、幸村の家族に何十回と言っていた。
 「ありがとう!!!」


 そうして始まった外出許可は、二週間に一回から、幸村の病状の回復に合わせてやがて一週間に一回になった。